【タレント】 織田信成さん
織田信成


だいぶ前に書いてたエントリーで、うまくまとまらないので放置してたんですが、修正?しましたのでアップしときます。あまりタイムリーではないですけど、今後地味に大御所みたくなるかもしれないので。(地味に大御所とは、ビートたけしでなくマツコデラックスみたいなこと)




最近テレビに台頭して来たタレントさんの中で織田信成さんは、僕の中で近年希に見る最強のタレントさんだ。

ジャンルは違うけど、関根麻里さんみたいな、何か突出してる訳ではないけどタレント力(総合力)たけぇ!という。

マスコミと庶民が大好きな要素として、おねえ(ノリが)、乙女(ノリが)、吉本(関西)、ゆるキャラ?マスコット?ぽい(ちっこいお猿さんみたいな)、イクメン(現役)、アスリート(現役)という、他に類を見ない多様なキャッチー要素?タレント性?を併せ持った人。

同じ事をもっと具体的に書くと、可愛いもの甘い物がだいすき(しかも女でなく男)。そう若くもないがおっさんでもない。結婚して子供もいてその家族生活を破綻なくやれてる(ぽぃ)。そしてトーンはおねえぽくもある。また運動神経抜群のアスリートでもある。そして吉本芸人並みに、(関西特有の瞬発力特化の)空気が読めて、話してボケられる。そして完全に庶民という感じでへりくだれる振る舞い。しかもロケなどで華麗に舞える(リアクション充実)。あと芸人じゃないのに国民に知られたネタすら持ってる(泣く)っていう。で見た目も可愛らしいというか滑稽というか、キャッチー。…やっぱすげえな。

関西のローカル朝番組の『よーい、どん!』という超ローカルな市区町村をロケ取材する、関西ローカル番組で、完全に彼の能力が開花しているんだけど、その番組、各曜日でロケタレントが変わるんだけど、他曜日でず〜っと何年も何年もやってる他のタレントを、就任して1ヶ月も経たず軽く凌駕していた。現在半年くらい?しか経ってないと思うけど、もはや完全に番組の看板レポーターになってると思う。

全国区では、関西とノリも、求められるものも違うので、また話違ってくるからどうか分からないけど、とにかく彼は凄い逸材。ザ・タレント、ではあると思う。修三みたいな派手な感じでなく、地味に何でも出来てどこにでもいてどんなポジションでもこなせるタレント、という逸材。

p.s.
だいぶ前に、これまた関西ローカルの、海原やすよともこ(ベテラン女漫才コンビ)と一緒に関西芸人が関西の商業コンプレックスを買い物して回る、という1時間番組があるんだけど、それに信成さんが初めて出た時、『この番組ファンなんですぅ〜』と、やすよともこをいきなりつかもうとしていて、彼女らに『ほんまぁー?!』みたいな懐疑的な関西おばはん的な返しをされたんですけど、信成さん、『あの、僕、前に番組で出てた財布(※やったかな。何かアイテム)あったでしょ?(以下具体的に述べる)あれ、買いにいきましたもんー。』とか返してて、『うわあ!ほんまに見てくれてるんやン〜!』みたいな感じで1分と経たず手強い彼女らを手籠めにした。そに時に、…こいつ…凄すぎる。。と思いました。

風のむりやりな力では旅人の服を脱がせられなかったけど、太陽は力ずくでなく彼自身に自発的に脱がせる事が出来た、みたいな童話あるでしょ。その時、そういう凄さを彼に感じた。

ま、誰も思ってないけど、彼は逸材ですよ、という話。今後どんどん出まくるようになるよ。いっときのふなっしーみたいに、という話とその理由でした。
2016/01/13 | 気になる・・ | コメント:0 | トラックバック:0____
【建築開始】 竹中大工道具館
竹中大工道具館


うちからゆっくり歩いて5分くらいのところ(=山陽新幹線 新神戸駅のほど近く)に、何か建て始めてます。

そこら辺の、作業着着たおっさんに聞いたら、

「竹中大工道具館」

て言ってたと思います。三ノ宮の西の、北に既にある建物の、移転、拡張??

何にしてもええやん。。おれテーマ館すき。

徒歩圏に、ここ、横尾忠則博物館、神戸市文書館、王子動物園。チャリ圏なら、兵庫県立美術館、震災記念館、神戸市立博物館、素晴らしいやん。おれ、文化の真っ只中やん。

どっこも行ってへん。行かないとだめですね。

ただし、アンパンマンミュージアム、お前はダメだ。1才以上入場料1,500万円とはなにごとでしょう?やなせたかしさん、どういうこと?


→ 竹中大工道具館ウェブサイト
2013/05/02 | 気になる・・ | コメント:0 | トラックバック:0____
【たしなみ】 エチ毛ット論 / ヘアのお手入れ
内村航平さんを見ていて、まるでビンラディンのようだ、と思いました。

あ、これは毛深さについての話です。政治や思想などはいっさい関係ありません。内村さんは脇毛、ビンラディンはあごひげです。何が言いたいのかというと、箇所関わりなく、毛をボーボー生やしっぱなしにしているのを露出する事って、下品で不潔で、テレビに出してはいけないし、モラルを問うなぁ、そういう話です。

内村さんの体操については、僕はにわかオリンピックファンよりは体操見てますし、ゆえに勿論、とても尊敬してます。でも、それとこれとは全く別の話です。当然です。

内村さんは、滅茶苦茶脇毛が濃いのに、そしてその部位は世界中の公衆の面前に完全に晒すというのに、全くケアしてない、その意識はどうなのか。そういう事を言っている訳です。彼はプロではないですけれど、その世界を代表している立場として、その影響力からして、ある意味プロな訳です。そこから考えると、酷すぎる、と僕は思う訳です。わいせつ物陳列罪です。

人間、通常毛がボーボーになる場所というのは、髪以外では、脇と、デンジャラスゾーン←と、強いて言えば眉毛、くらいですが、僕は昔から(大人になって以降)、常々そういう美的感覚でやってきましたので、その3つについては、それなりにいつも整えてきました。

何年か前に知ったのですが、外国では、そういう事は男女問わず当たり前だそうですね。特に女性のデンジャラス←については、ツルツルなのが一般的で、例えばハート型にしたりとか、意図的に遊びで残したりする事はあるそうですけど、とにかくだらしないあいつ達をクネクネと延ばしっぱなし、なんて事はあり得ないそうです。

僕は、世界的に当たり前かどうかとかそんなの以前に、美的感覚として佇まいとして、また清潔感的にとかの時点で最初からあり得ない、と思います。ボーボーが当たり前(=日本?アジア?)なんて、これだけ清潔でお洒落な国の国民が、何という盲点だろう、と。

僕が言っているのは、範囲について、つまり、キワについてではありません。あくまでも"長さ"についての話です。

ですので、多分日本の男女きっとほとんど全員アウトです。

僕のヘアは、一年を通じて(眉毛はまあ普通にですがその他のヘア部分については)、かなり爽やかに、例えるなら、ふわっと心地がよい、程良く短く刈られた夏芝のように、さりげなく、しかし丁寧に整えられています。

内村航平さんと日本の人、整えてください。特に女子。特に女子!
2012/09/18 | 気になる・・ | コメント:0 | トラックバック:0____
【核】 村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)
「非現実的な夢想家として」

 この前僕がバルセロナを訪れたのは、2年前の春のことでした。サイン会を開いたとき、たくさんの人が集まってくれて、1時間半かけてもサインしきれないほどでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性読者が僕にキスを求めたからです。僕は世界中のいろんなところでサイン会を開いてきましたが、女性読者にキスを求められたのは、このバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがよくわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい都市に、戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 ただ残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分、日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転がわずかに速くなり、1日が100万分の1.8秒短くなるという規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後に襲ってきた津波の残した爪痕はすさまじいものでした。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ遅れ、2万4千人近くがその犠牲となり、そのうちの9千人近くはまだ行方不明のままです。多くの人々はおそらく冷たい海の底に今も沈んでいるのでしょう。それを思うと、もし自分がそういう立場になっていたらと思うと、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せてしまった町や村もいくつかあります。生きる希望をむしり取られてしまった人々も数多くいらっしゃいます。

 日本人であるということは、多くの自然災害と一緒に生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になります。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。それから各地で活発な火山活動があります。日本には現在108の活動中の火山があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、4つの巨大なプレートに乗っかるようなかっこうで、危なっかしく位置しています。つまりいわば地震の巣の上で生活を送っているようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震は予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これがおしまいではなく、近い将来、必ず大きい地震が襲ってくるだろうと言うことです。この20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの巨大地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは1年後かもしれないし、明日の午後かもしれません。にもかかわらず東京都内だけで1300万の人々が、普通の日々の生活を今も送っています。
人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで仕事をしています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 どうしてか?とあなたは尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?

 日本語には「無常」という言葉があります。この世に生まれたあらゆるものは、やがては消滅し、すべてはとどまることなく形を変え続ける。永遠の安定とか、不変不滅のものなどどこにもない、ということです。これは仏教から来た世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し別の脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても無駄だ、ということにもなります。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になると桜を、夏には蛍を、秋には紅葉を愛でます。それも習慣的に、集団的に、いうなればそうすることが自明のことであるかのように、それらを熱心に観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば人々で混み合い、ホテルの予約をとるのもむずかしくなります。
 どうしてでしょう?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。私たちはそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そして、それらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さなひかりを失い、鮮やかな色を奪われていくのを確認し、そのことでむしろほっとするのです。
 そのような精神性に、自然災害が影響を及ぼしたかどうか、僕にはわかりません。しかし私たちが次々に押し寄せる自然災害を、ある意味では仕方ないものとして受けとめ、その被害を集団的に克服していくことで生きのびてきたことは確かなところです。あるいはその体験は、私たちの美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けました。普段から地震に馴れているはずの我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ抱いています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて僕はあまり心配してはいません。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は補修できます。

 考えてみれば人類はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。ここに住んで下さいと地球に頼まれたわけではありません。少し揺れたからといって、誰に文句を言うこともできない。。
 ここできょう僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。
 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった6基の原子炉のうち3基は、修復されないまま、いまも周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、海に流されています。風がそれを広範囲にばらまきます。

 10万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。ペットや家畜もうち捨てられています。そこに住んでいた人々はひょっとしたらもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりでなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなるかもしれません。

 どうしてこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因は明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことがあり、安全基準の見直しが求められていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。どうしてかというと何百年に一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するはずの政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節があります。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族のようです。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させることにはあまり得意じゃあない。そういうところはバルセロナ市民のみなさんとは少し違っているかもしれません。しかし今回ばかりは、さすがの日本国民も真剣に腹を立てると思います。

 しかしそれと同時に私たちは、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないはずです。今回の事態は、我々の倫理や規範そのものに深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、私たち日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という2つの都市が、アメリカ軍の爆撃機によって原爆を投下され、20万を超す人命が失われました。そして生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていきました。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものか、私たちはそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。私たちは被害者であると同時に、加害者でもあるということをそれは意味しています。


核という圧倒的な力の脅威の前では、私たち全員が被害者ですし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、私たちはすべて加害者でもあります。

今回の福島の原子力発電所の事故は、我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。私たち日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、自らの国土を汚し自らの生活を破壊しているのです。

どうしてそんなことになったのでしょう?戦後長いあいだ日本人が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?私たちが一貫して求めてきた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 答えは簡単です。「効率」です。efficiencyです。

 原子炉は効率の良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を抱き、原子力発電を国の政策として推し進めてきました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、この地震の多い狭く混み合った日本が、世界で3番目に原子炉の多い国になっていたのです。

 まず既成事実がつくられました。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくなってもいいんですね。夏場にエアコンが使えなくてもいいんですね」という脅しが向けられます。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして私たちはここにいます。安全で効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けたような惨状を呈しています。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかったのです。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、私たち日本人の倫理と規範の敗北でもありました。
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 私たちはもう一度その言葉を心に刻みこまなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもないことですが、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 私たち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です。

 私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです。それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、私たちの集合的責任の取り方となったはずです。それはまた我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を私たちは見失ってしまいました。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは私たち全員の仕事になります。それは素朴で黙々とした、忍耐力を必要とする作業になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなが力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げていかなくてはなりません。それは私たち全員が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人を励ます律動を持つ物語であるはずです。

 最初にも述べましたように、私たちは「無常」という移ろいゆく儚い世界に生きています。大きな自然の力の前では、人は時として無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、そのような危機に満ちたもろい世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も私たちには具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけることは、僕にとって大きな誇りです。私たちは住んでいる場所も離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつ私たちは同じような問題を背負い、同じような喜びや悲しみを抱く、同じ世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られるということも起こります。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることをとても嬉しく思います。
 夢を見ることは小説家の仕事です。しかし小説家にとってより大事な仕事は、その夢を人々と分かち合うことです。そのような分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの長い歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、独自の言語と文化をまもってきたことを僕は知っています。私たちのあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、私たちが等しく「非現実的な夢想家」となることができたら、そしてこの世界に共通した新しい価値観を打ち立てていくことができたら、どんなにすばらしいだろうと思います。それこそが近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、ヒューマニティの再生への出発点になるのではないかと僕は考えます。
 私たちは夢を見ることを恐れてはなりません。理想を抱くことを恐れてもなりません。そして私たちの足取りを、「便宜」や「効率」といった名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。私たちは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」になるのです。

 最後になりますが、今回の賞金は、全額、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そしてまた先日のロルカの地震で犠牲になった人々に一人の日本人として深い哀悼の意を表したいと思います。
2011/06/11 | 気になる・・ | コメント:0 | トラックバック:0____
【原子力】 わたしの頭の中の原発
<原発に関わる人的資源>

東京電力は、一般の企業とは違って、ほとんど官営企業のようなもので、事実上独占企業です。
しかも、扱っているのは電力。ライフラインで、電力の自由化のない日本では、郵便や通信より更に独占的な立場にあります。

企業努力や企業競争を勝ち抜いて商品を売り、商品価値や企業レベルを上げていく一般の企業とは違って、競争もありませんし、また、日本の中心の電力を担っているという特性上、地方の電力会社よりも、政府の人間や官僚とのダイレクトで密接な結びつきもあり、また、そういった人々の個人的な利権を担っている側面もあり、あらゆる角度から見ても強靱に守られている立場の企業です。

そのような企業、というか利己的な営利組織に、クリエイティヴな人や、世の中を良くしよう、良いサービスを提供しよう、という人は集まりません。高収入で安定した職場ですし、ある一部の人間しか入れない、高学歴の人間の一部しか入れない、ある種エリートのみが入社出来る会社ですから、集まるのは、プライドが高く、謙虚さや庶民感覚から遠く、ともあれ自分の利益や収入のことを一意に考える人達です。

そういう人達で形作られた組織の中で、高い能力、という言葉が指す意味は、クリエイティヴ的能力や、生産性向上能力などではなく、組織の中での、自分の利益に反する危機を回避する能力と、責任を回避する能力です。

物事においてなんらかのプラス、付加価値を生み出したり、現状をさらに上のレベルへと変える為にはリスクが伴います。そういうリスクは避け、いかに自分がリスクを負わずに現状をそつなく過ごすか、そういう事だけ考える人達の環境です。


<原子力発電というメソッド>

原子力発電というのは、日本が導入を考えていた当初から、既にもう人類には収拾出来ないリスキーな発電方法でした。何か起こったらどうなるのか、ということについて無責任な事柄というのは、様々なジャンルに星の数ほどありますが、ただ、放射性物質を扱うというそれは、トラブルが、その場所で、その時間だけでということでは済まない、地球規模、人類の時間の尺度以上の、完全に割の合わないツケを払わされるリスクのある唯一のフィールドですので、僕は昔から全否定でした。

他の発電方法としては、現実的に、現行としては火力があります。勿論その他風力地熱いろいろあると思いますけど。その、一番マスである、火力の発電の原料である石油は、もう何十年も、あと何十年で枯渇と言われていますが、掘削能力や調査能力が年々上がっている為、そのままです。現在も、何十年、という同じフレーズが続いています。つまり、枯渇するという前提は、あまり現実的ではありません。また、その排出ガス、CO2の問題を引き合いに出し。変えるべきとよく言われていますが、地球温暖化は、人類にとっては多少そうなのかもしれませんが、有史、地球的には今は寒冷期ですし、火力発電によるCO2等よりも、見直さないといけない事は他にあるでしょう。それは、エネルギー問題というよりは、目先と自分の事しか考えていない、結局利権の問題になると思いますけど。

また、仮に温暖化で極の氷が溶けて水位が上がったり、異常気温になったとしても、放射性物質が人類に与える被害と比べたら、比較の対象にもなりません。(異常気温が軽いという意味ではなく、放射性物質の凄まじさ)

原子力発電は、一度稼働し始めると、毒素を何十年何百年も吐き出し続けますので、施設を使い終わった(老朽化)後の事を考えると大変です。しかも、その、後の事を制御する技術は現在まだありません。そして、その、何百年分の後処理コスト、はコストに入れていません。発電所自体の耐用年数は、もの凄く過酷で過激なエネルギーを使う発電ですので短いです。福島でももともと10年だったのではないでしょうか(実使用はむりやり使っていて40年)。施設内の全てから放射線物質を揮発し続けますので、極論、根本的なメンテナンスは出来ません。有名になりましたが、使用済みの燃料棒も、無害になるまで300年位かかるのですが、300年の間耐える廃棄容器というのも現実的に検証出来ませんし、どこに保管しておいたらいいのかも答えが出ていません。いまはとりあえずガラスで固めて、埋めてたり、海の底に穴を掘って、とりあえず置いている状態です。

それなのに何故原子力なのか?

単に、群を抜いて儲かるからです。

それも、国民みんなが儲かる訳ではなくて、いまテレビに出ていろいろ報告している人達や事故を起こした当事者たち(政治家も含めて)、それを放送するマスコミ達、それを解説する大学教授の人達や専門家、彼らだけが儲かるのであって、一方そのリスクや計算に入れられていない事故のコスト、計算に入れられていない事後処理のコストは、国民全員と、何代にもわたる子孫達が支払う事になっています。

原子力が何故儲かるかというと単純で、例えば飲食店的な言い方をすると、ひとつには、原価率が低いからです。

ところで、原子力が何故そんなにパワフルかという事をご存じない方もいるかもしれませんので、そこにまず少し触れますと、(ちょっと間違った変な喩えですが)例えば小さな木片がひとつあります。そのままだと特に何もなくちょこんとそこにいる、単なるおとなしい物質ですね。でも、いったんそこに火をつけたらどうでしょう。熱く燃え上がり、周りのものを焦がしながらすごいエネルギーを放ちます。物質が持つ潜在能力は、実はほとんど発揮されていない状態で、通常一番静かな状態でその場に佇んでいるのが通常なんです。そういう、物質の構成要素(原子)の持つ潜在能力を、更に、自然界に存在しない程までどんどん濃縮していくと、たとえ1cm×1cmのちっぽけな欠片でも、大変なエネルギーになるんです。とても乱暴な説明ですが、そういう物質が放射性物質で、それは何もしなくても延々と発熱し揮発し、何十年も厳重に冷却管理をしておかないと大暴走して臨界するような…要は現在の福島です。

さらに余談ですけれど、そういった放射性物質に耐性を持っている有機物(原始的な生き物)は沢山いますし、それが蔓延しても、地球の生き物的には、新たなものに取って代わるだけで、特にどうという事もないんです。ただ、僕ら人類は、食物連鎖の頂点に位置する為、特別に放射性物質に弱く(上位捕食者にどんどん濃縮されていくからです)、文字通り死活問題となります。これまでの全ての事もそうですが、地球の為、でなくて、単に僕らだけの為の、自滅行為の後の自演行為という状態です。とりわけ原発のようにごく一部の人達の利益の為だけにこれ程のリスクを負うというのは、多分過去に比類ないものです。

話がそれました。

電力会社の原価率の話ですが、確か電力の価格は、一般企業の様に、総合的な原価から算出されているのではなく、『設備投資にかかったコストから一定のパーセントを利益として電気料金に設定出来る』というルールではなかったかと思います。つまり、建設に金がかかればかかる程、儲かる訳です。しかも延々とそのままで。

原子力発電所にかかる建設費は、他と比べてダントツです。そして危険や事後コストについては無視、基本サービスの向上や健全性などとは無縁の独占状態。

自分の今の利益だけを追求する人にとっては、原子力はウハウハなんですね。


<マスメディア>

マスコミといっても、単なる営利企業です。本来そうではないはずのNHKも、原子力発電に利権を持っている団体や個人を沢山抱えています。つまり、伝える側は、皆事故を起こした当事者側の人達という事です。テレビは、プライドのない人達の集まりになっています。当然です。自分の給料こそがたいせつ、自分の社会的立場や生活こそがたいせつという人達ですから結果的に。だから、その情報を鵜呑みにする程愚かな日本人にはならないでください。真実は、自分自身で努力して調査した人だけが得られるというのが現状です。



いろんな事を書きましたが、この期にいろんな膿を出して、リーダーとしての資格のない一部の人達が不当に莫大な利益を得ながら日本を削り取っているという一部の現状がきっちりと精算・淘汰され、あるべき姿に適切に改善されなければいけません。
2011/04/07 | 気になる・・ | コメント:0 | トラックバック:0____
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